はじめに
痛ましい事件だと思いました。ここから思ったことと似たようなことをあるところで人と話していたのですが、そのことも絡めて書いておきます。
「痛みは体のサイン」
最近私がこの言葉を発したのは、プログラミングする際の姿勢の話とか、椅子の話とかだったのですが、体にも心にも同じようなことが言えるのではないかと思うのでそこから始めます。
多分何か身体に無理がかかった時に「痛み」が発生するのではないでしょうか。つまりその時は「何か気をつけないといけない!」と体が発信してくれていると考えられます。よくない姿勢であったり、体に合っていない椅子に座り続けた時などにこのサインは起こるのでしょう。
そういう時、私たちはいくつかの対応策を考えて行うことができます。たとえば
- 基本的な姿勢を変える
- 休憩時間を入れるようにする
- 椅子・机など設備を変える
のようなことですよね。
我慢できる
実は痛みに関して人間は他にも対応策を持っています。「我慢」という行為です。ある程度痛みがあるにせよ「痛みに耐える」ということができる仕組みになっています。通常は一瞬や短時間なら耐えながら物事を行うと思います。
本来この「耐える」というのは「いきなり活動不能にならずに、上記のような対応策を取る時間を稼げるような『バッファ』として体が発信している」とも考えることができそうです。痛みをこらえながら病院に行くようなことを考えていただければ想像しやすいでしょうか。
我慢し過ぎ
我慢強い人、我慢できない人など、人には色々と我慢耐性の度合いがある様子に思います。通常のイメージで考えると我慢強い人の方が頼りになり、物事を達成しやすいような性質として捉えられていると思いますし、確かにそういう傾向は強いと思いますが、私は時折不安になる時があります。
我慢するにも限度があるので、本来対応策を取るべきだったのに取らずに進んでしまうと、どこかで「我慢の限界」は訪れるはずで、治るはずなのに治らない大きな傷になったりするのではないでしょうか。
身体と心
そして身体だけではなくて、心にもおなじようなことが起こると思います。最初は我慢できたことかもしれませんが、ずっと我慢し続けている間に心に大きな傷を作ってしまうことがあります。昔私が現場で一緒だった知り合いでも、そういう方がいらっしゃいます。我慢強さが仇になってしまうということではないでしょうか。
真面目だったりひたむきだったりする人が、或る日突然折れてしまうことはあると思うのです。
私の会社は真剣に仕事に取り組みたい人ばかりなこともあり、結構気を配っている「つもり」ではあります*1。勤怠がゆるくても別のところで大きなストレスを受ける可能性もありますからね。
逃げてもよい
聞いたところによると、我慢が慢性化すると「通常」がどういう状態かわからなくなってしまうらしいです。
下手するとある程度痛みを我慢していないと「ちゃんとやっていないのでは無いかと不安になる」とか「刺激が足らない」とか思うそうです。個人的には過度の我慢は避けて、痛みとして感じられるうちにある程度距離を置いていくのは必要だと思うし、やって良いと思います。
また、わからなくなった時に誰でも良いので第三者に相談するのは良いことでしょう。会社のことを会社に全然関係ない人に相談したり、公的な機関に頼ってみたり、なんでもいいから「その環境の外に」いる人の客観的な意見を聞いてみるのは良さそうです。
ただ、第三者で適切な意見を言えるかと言うと、それは結構難しいことなのでなかなか対応に苦慮するところでもありますね。私も実際に適切な対応が取れる自信がありません。相手が他社ならまず介入は難しい筈です。
我慢しないのは怠け者?
「我慢しないことが単なる怠け者とどう違うのか」と聞かれれば「従業員においては決められた時間内を真剣にやってくれていれば(我慢などしなくても)怠けてないのでは無いか?」というのが今の私の見解です*2。ただ、仕事って別に怠けててもいいんですよ。どんなに気持ちが入っていなくても望まれた成果さえ出してくれれば会社というチームは存続できるからです。
ただし、会社にどんなメンバーを望むのかは文化によって違います。例えば弊社の場合には怠け者は居心地悪いだろうから来ない方が幸せでしょうね。
おしまいに
一定の我慢が必要なことはもちろんありますが、過度な我慢を長期的に続けるのは避けて欲しいなという意見でした。もしもそんな状況になりかけている人がいたら心が麻痺してしまう前に距離を置いて欲しいものです。
皆さんの心と身体の健康を祈りつつこのエントリを終わります。